「努力できるのも才能」
たまにネットで聞く言葉です。
でもこの言葉を聞いても全然ピンとこなかった。
意味は分かるし言ってる事も分かるけど、なにかモヤモヤが残る状態。
そのモヤモヤの原因がわかりました。
この言葉が
次元が低い努力できない人の言葉
だと思ったから。
タイトルもそうだけど結構煽り気味でこの記事は書いてみます!
ダメだった時に気付いた自分自身のことを書きました。
※なにかしらのプロになりたい人向けに書いています。
※タイトルの時点で嫌悪感を抱いた方は読まないことを強くオススメします。読む場合は自己責任でお願いします。
この記事で伝えたい事
この記事で伝えたいことまとめ
- プロで活躍する人達の中に「努力できるのも才能」という考えはない
- 「努力できるのも才能」など考える前にやっている
- 「努力できるのも才能」があるとしたら、上手くいっている人は全員持っている
- プロの中で生きるなら「努力できるのも才能」と語る意味はない(全員が持っているから)
- プロで活躍する人達は費やす時間が凄まじい
- 圧倒的な時間を費やしてからが才能の世界
- 「努力できるのも才能」という意識は出来るだけ早く捨てた方が良い
- 仮に今が違う考えだとしても考え方だけでも彼らと似せることができれば、また成功している人と同じ行動をすれば今よりも自然と結果が出てくる
努力できる才能のあるなし、ではなく、「自分のなりたい世界の人は全員持っているから考えてもしょうがないよね」という話です。「自分に努力の才能があるのかな?ないのかな?」というのはここで書く話でどうでもいい話で「やるしかないよね」というお話です。
【追記】努力がどうのこうのは関係なくてやるべきかどうか ~犬の介護で睡眠時間2時間、常に見ながら病院に行き、さらに仕事も変えて1からやる~
「努力できるのも才能」なんて実際に聞いたことない
まず違和感を覚えた理由として「努力できるのも才能」という言葉を実際に聞いたことないということ。
僕は今はギタリストやら経営やら色々とやっています。
そして知り合う方々も幸運ながら凄い人ばかり。僕なんかが知り合えて良いのかというレベルの方も多い。
これはもちろん自慢をしたいから書いた訳ではないですよ。
色んな分野で活躍している人達との会話で「努力できるのも才能」なんて聞いたことがないんです。
僕はネット以外ではその言葉とは無縁の人生でした。
だから、「努力できるのも才能」という言葉を聞いた時に言葉の意味を理解はできても違和感がありました。
生きてきて聞いたことが無い言葉だから。
しかも努力が必須のクリエイターが多い界隈で。
なぜ、その言葉を聞くことが無かったのか?
この問いには「努力」という言葉を考えなければいけないと思います。
「努力」を努力と思っていない。そもそも「努力という概念がない」?
努力という言葉の意味は
どりょく【努力】
《名・ス自》目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。
というもの。
目標の実現のため、心身を労してつとめること。
これは自分もかなり時間をかけてきた。
ギタリストとして、毎日8時間とか練習したし色々と寝る間を惜しんでやってきた。(トップはまだまだ遠いけど)
「努力をしてきた」ということになります。
・・・でもね。
「努力をした」なんて思った事はないんです。
「やりたい事をやってきた」だけ。
「ギターが上手くなりたい」
「この事業をどうにか上手くこなしたい」
「ネットのサイトをキレイにしたい」
ただただ自分がやりたい事に対して良くなるようにやってきただけ。
上手くなるために必要な事をやっただけ。
そのために10なん時間、朝まで、徹夜なども普通にやってきた。
多くの時間をかけたからって「私はたくさん努力をした!」とは言わない。「多くの時間は費やしてきた」なら言うかもしれないけど。
そもそも
「努力」を努力と思っていない。
結果として「努力」という言葉に当てはまっても、自分のやってきたことに対して「努力した」とも言う人はほぼいない・・・はず。
努力という概念がないといった方が正しいかもしれないです。
「努力」という言葉は他人が他人に対して使う言葉のような気がしています。
では、なぜ「努力」を努力と思わないのか?
やるのが当たり前だから
それは
やるのが当たり前
だから。
前述の通りで
「上手くなりたい・良くしたい」ならやるしかない。
夢や目標があったらやるしかない。
「あんなふうにギターを弾けるようになりたいな!」と思ったら、ギター弾きますよね?
「宮崎駿さんみたいな躍動感のある滑らかな絵を描きたい」と思ったら、出来るようになるまで練習しますよね?
「サッカーでフリーキックが上手くなりたい」と思ったら、たくさん練習しますよね?
努力と呼ばれる行動は「当たり前のこと」なんです。
しかも、これは嫌々やっているわけではなく
が多いのではないかと思う。
努力の意味の「目標の実現のため、心身を労してつとめること。」は目指すべき到達点があれば超普通のはずなんですよね。
それに周りを見ると、寝ないでやっている人、何十時間もやっている人が当たり前の状況です。
自分よりも優れた人がほとんどの状況。
目指したい人・場所がいて、自分はまだまだの状況。
そんな状況だったら、それは時間をかけるに決まってる。
やらない方がおかしいくらいの状況・環境です。
実際僕はそういう環境で育ち・生きてきました。
自分の能力の低さに焦って「やばい、やらないと・・・」と常に思っています。
特に自分の能力に対して「誰よりも優れていて天才だ」とは思っていないのでなおさらです。
「努力」なんて当たり前すぎて言う必要がない。
誰しもやってるし、優れた人ほど長時間費やしていて、僕なんかはやらなければ近づけない・追い越せない・行きたい場所に行けないから。
なので努力という概念すらない人がほとんどで、その状況の中・目指すべき場所にいる人を見ると、努力というものが当たり前の状態にする必要があるのだなと思います。
しかもできるだけ強めで当たり前に。
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「努力できる才能」なんてない
僕は「努力できる才能」なんてないと思っています。
「目標の実現のため」だったらなんでもやるから。
「努力」という行為なんて当たり前だから。
努力できるというかやるのが当たり前で、「努力できる才能」なんて誰しもが持ってるレベルだと思う。
「努力できる才能」は全員持ってる状態がスタート。
全員持ってる状態ならあってないようなもの。
だから、やる人達にとって「努力できる才能」なんてないと思っています。
「努力できる才能」は次元の低い言葉
だから「努力できる才能」は次元の低い言葉だとも思う。
「次元が低い」という言葉はあまり良くないけど、ステージが違うということです。(ステージが高い低いは別として)
例えばオリンピックに出るような人達に「努力できるのも才能ですよね~」なんて言えない。
全員がやるべき事をやってきた(努力してきた)し、全員が努力できる才能を持ってる人だから。
その人達の中でも「努力できる才能」なんて出てくることはないはず。
「努力できる才能」があるないと話すのは、そもそも次元が低いのではないかな?
意識の差がすでに存在するのではないか?
そういうのが当たり前の上で行動をしていく人が”違う場所”に行けるから。
と考えると「努力できる才能がある・ない」の話でどうのこうの言うのは向いていないのかもしれない。
なんでかと言うと、やる人は既にやってるから。
それにやる人は夢中になってるよね。
時間を忘れて夢中になってる。
努力という言葉を使わなくても、とにかくやってる。
やりたいからやってる、やるべき事だからやってる、好きだからやってる。
やりたい事・好きな事って時間を忘れてやるよね。
子供の頃はゲームが大好きで、学校から帰ってはずっとやってた。
ギターも上手くなりたいから、ずっと弾いてた。
「努力できる才能」がどうのこうのなんて考えたことはなかったし、とにかく自分のやりたいことをするだけ。
自分が目指す場所が上であればあるほど「努力できる才能」は当たり前のことです。
仮に才能があるような人ばかりでも、自分がそこに行きたいなら努力できる才能なんて考えずにやるしかない。と僕は思っています。
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「努力できるのも才能」という言葉は努力したことがない人が使う言葉
ここでふと疑問に思った事がある。
やる人はやるし、努力する人にとって努力は当たり前。
「努力できるのも才能」は当たり前。
というのがやってる人の共通する事だとしたら、誰が「努力できるのも才能」と言うのだろう?
それは「努力したことがない人」になるのかもしれない。
もしくは、努力はしたことはあるけど努力量が圧倒的に足りてない人。
何事も形になるのはかなりの時間がかかります。
1週間練習したからってギターがプロ並みに弾けるようになるわけじゃない。
1か月毎日筋トレして鍛えたからって100m走で10秒台で走れるわけじゃない。
確実に数年単位で、かなりの時間をかけなければならない。
山に登るのには時間がかかるんですよね。
やり始めれば山頂までの遠さはわかる。
そこで登るか登るのをやめるか。
途中で諦めたとしても、努力をしてきた人は「努力できるのも才能」とは言わない気がする。
届かなかったとしても、やってきた自負はあるはずだから。
と考えていくと、言う人は「やってこなかった人」になるような気がする。
周りにそういう人がいないのと、実際に聞いたことがないのでこればかりは確かめる術はないので、推測でしかないです。
【追記】これは昔の自分に当てはまりました。
「才能が~」と考えていた時は上手くいっている人達と比べると圧倒的にやっていなかったと気付きました。
まさに僕自身が「やってこなかった人」でした。
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近くに言う人がいたら環境を変えよう
「努力したことがない人」が「努力できるのも才能」という言葉を使うと仮定して、
もし近くでそういう人がいたとしたら、
また仲間で言う人がいたら
環境を変えよう
類は友を呼ぶ。
周りにいる人と自分は近い存在。
だからです。
やってきた人達は「努力できるのも才能」なんて会話で使わない。
言う必要のないという共通認識を持った人達だから。
近くで聞くということは自分がまだその位置という可能性がある。
環境を変えるか、出来るだけ早く自分がそこから飛びぬける。
飛びぬければ、そういう言葉を直接聞くことは少なくなっていくはずだから。
「努力できるのも才能」なんていうのが当たり前という場所に行かないといけない。
と僕は思っています。
トッププロの多い場所に自分を置く
【追記】「努力できる才能」とか関係なくやらなければ理想に近づかないのでとにかくやっているんですよね。
その人達の中では「努力できる才能」という言葉が存在しないかのようです。
「やるかやらないかだけ」で「とにかくやっている」んですよね。
トッププロの多い場所に身を置くと分かりやすいです。
自分が成長してその場所にも身を置くのも良いですが、TwitterやFacebookなどで尊敬する人達をフォローしてみてください。
彼らの行動力・行動量が理解できるはずです。
例えば知り合いに作曲家が何人もいます。
彼らのTwitterを見ると、1日1~2曲は作っています。
寝る間を惜しんで作っている人もいます。
そういうのを見ると、作曲家として生きるのであれば、それくらいは出来なければいけないと危機感を覚えます。
ちなみにPerfumeやきゃりーぱみゅぱみゅのプロデューサー兼作曲の中田ヤスタカさんは1日に3~4曲を作っているそうです。
プロの世界はそういう世界なのだと思います。
そこに行きたい、そこで生きたいのであれば、やるしかないしとにかく行動しているのだと思います。
是非尊敬する人達を周りにおいて、その人達と同じレベルで行動するようにしてみてください。
元陸上競技選手。400mハードル日本記録保持者の為末大さんも同じことを言っています。
元陸上競技選手。400mハードル日本記録保持者の為末大さんが同じことを言っています。
【終わり】天才をのぞき、普通の人がトップレベルに行くにはトップレベルにたくさん触れる事で、そこで常識とされる事に自分が染まってしまうのが一番早いと思う。人はすごい事をやって引き上げられるというより、こんなの普通でしょと思うレベルの底上げによって引き上げられると思う。
— Dai Tamesue (為末大) (@daijapan) 2013年3月15日
【終わり】天才をのぞき、普通の人がトップレベルに行くにはトップレベルにたくさん触れる事で、そこで常識とされる事に自分が染まってしまうのが一番早いと思う。人はすごい事をやって引き上げられるというより、こんなの普通でしょと思うレベルの底上げによって引き上げられると思う。
やってダメなら諦めるしかない
「努力できる才能」はないとは思っていますが、その世界で生きられるかは別のセンスや才能が必要だと思っています。
とにかく時間を費やしても無理な場合もあります。
方法が悪い場合もありますが、どんなに時間をかけても何年も10年もやってもダメな場合があります。
その場合は僕としては諦めるしかないと思っています。
ただそれは「辞めろ」ではなく、好きなら続ければいいのかなという感覚。(自分の場合は)
これに関しては個々で決めてくださいね。
でもここまで行けるのは「やってきた人のみ」でもあると思っています。
天才であれば別ですが、僕も含めて普通の人がやっている人よりもやっていないのはほぼ確実にそこでは戦えないです。 確実に差は開いていきます。
僕も諦めた事はありますが、確実に時間を費やしていない事もあるので自分に危機感がなくダメだったのだと今なら思えます。
おわりに
途中は推測などを含めて、少し強めの書き方をしてみました。
今回の記事は「良くなりたい人」に向けての記事でした。
僕は「上手くいっている人達には共通する考えや理由がある」と思っています。
その道で生きている人達に共通する考えがここに書いてあることなのではないかなと思いました。
本当に「努力できるのが才能」という言葉は僕にとって違和感だらけだったんです。
聞いたことがないのが一番大きな理由だけど、「努力できるのが才能??」と不思議だったんです。
「やるべきことをやる」ことができるのが才能??って。
また、ハッキリ言って努力をしたからって必ず報われるわけではないです。努力量にもよるけど。
努力してからが才能の世界だと思う。
だから"そういう世界"では努力できるのは才能なんかではなく、ごくごく普通のこと。
そして、努力をしないと見えない場所があって、そこからがスタート。
成功するのは天才か努力によって才能が開花した人。
だと思っています。
そういう考えの人しか生き残れない世界だからかもしれないです。(生きる場所によって変わると思います)
「努力できるのも才能は大事か」と聞かれれば「大事」と答えます。
でも最終的に生き残っている人達は「努力するのが当たり前」の人達なんですよね。
とにかく行動して、時間を気にせず寝る間を惜しんでやる人。
やらなければ理想の位置に行けないからやるしかない。
全員がそれをやってる人達の中で「努力」というのはごくごく普通で才能でもなんでもない世界ですとも言えるのかなと思います。
ハッキリ言って僕のレベルではまだまだで、成功している人達と接して見聞きして確信したことでもあります。
本当に一流の人はすさまじい時間を費やしています。周りを見てそう見える。
だから、「努力できるのが才能」とかそんなのどうでも良くて、やりたければとにかくやるしかないんだなと。
逆にやらなければそこの世界には到達できないんだなと思う。
「努力が出来るのが才能、できないのは才能がない」という話・議論自体がもう違うんだと思います。
そのレベルの話は早く卒業して次のステージに行かないといけない。
才能あるないの前に、やりたい事はやりまくれば何かが変わる。
今を変えたいならやるしかない。
と昔から俺は思っています。
何かの世界で生き、残り続けるには考え方が、今まで聞いてきた考えとそもそも違うんだなと実感します。
実際に知り合いや仲良くなったアーティスト・クリエイター、社長などにこの記事を見てもらうと「うんうん、わかる。この通り」と言ってもらえます。
でも、昔の自分に見せたとしても多分しっかりと理解はできないことだと思います。意識の仕方が全然違うし彼らとは常識が違ったから。
分からない人には分からないし、やってきた人や分かる人には分かる・当然と思う部分だと思います。
仮に今が違う考えだとしても考え方だけでも彼らと似せることができれば、また成功している人と同じ行動をすれば今よりも自然と結果が出てくると思います。
こういう記事を見ても文句を言わない人や、とにかくやる人こそ成功できるのだな色々な人を見てきて感じます。
この記事は自分自身に当てている事でもあります。
こ記事は自分自身に言い聞かせている事でもあります。
「努力できる才能があるのかな?」と昔は思って悩んでいました。
その時に色々な人と接するうちに「何かが違うぞ」と考えるようになりました。
「のりさん、上手くなるためにどうすればいいか知っていますか? 寝なければいいんですよ(笑)」と後輩のミュージシャンに言われた時は「なんだこいつ大丈夫か?」とも思ったけど、今では武道館で演奏するような売れっ子ミュージシャンとなり「寝ないでやった人とやっていない人の差」がハッキリとした形となっています。
それでも上手くいかない状態が続いて、他の人と接するうちに「『努力できる才能があるのかな?』なんて考えてる場合じゃない。やるしかない!」と思うようになりました。
考え方が一気に変わりました。
ここに書いた考えは強めに書いていますが、特に昔の自分自身に読ませたい文章であり、今の自分にも言い聞かせる文章です。
ここまで読んだ方に当てはまるかどうかは分かりませんが、何かしら気づきや意識が変わって良い方向に変われば嬉しく思います。
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まとめ
色々なプロと接して色々な本を読んだりして感じた共通点をこの記事で書きました。
少し分かりづらい文章だったかもしれないのでまとめます。
この記事で伝えたいことまとめ
- プロで活躍する人達の中に「努力できるのも才能」という考えはない
- 「努力できるのも才能」など考える前にやっている
- 「努力できるのも才能」があるとしたら、上手くいっている人は全員持っている
- プロの中で生きるなら「努力できるのも才能」と語る意味はない(全員が持っているから)
- プロで活躍する人達は費やす時間が凄まじい
- 圧倒的な時間を費やしてからが才能の世界
- 「努力できるのも才能」という意識は出来るだけ早く捨てた方が良い
- 仮に今が違う考えだとしても考え方だけでも彼らと似せることができれば、また成功している人と同じ行動をすれば今よりも自然と結果が出てくる
【追記】努力がどうのこうのは関係なくてやるべきかどうか
追記です。
このk時では「努力どうのこうのは関係ない」という主張です。
「やりたい・やらなければならないと考えるならやるしかない」ということです。
自分の経験を話します。
犬の介護で睡眠時間2時間、常に見ながら病院に行き、さらに仕事も変えて1からやる
僕は犬を飼っていますが、数年前に犬が病気になり、翌年には2匹同時に看病・介護をしていました。
ボケや目が見えない、自分で起き上がれない、まっすぐ前に進めない、頭がどっこかに挟まれば動けずずっとそのまま・・・など完全な介護で、当時は寝る時間も1日2時間で何をするにしても行動をチェックしていました。
そして家で介護をするために今までやっていた仕事をやめて家でできる仕事を始めました。
犬の病院にも毎日行っていた時は1日1万円かかるので、月に30万かかる計算でした。
その前に亡くなってしまったので30万はかからなかったけど、月に10万近くは最低でもかかっていました。
家で常に見なくてはいけない、毎日のように病院に連れて行かなくてはいけない、家でできる仕事で犬の介護費、さらには自分の生活費等も新たに稼がなくてはいけない。
正直とてつもなくしんどかったです。
でもこれは「家族を死なせたくない」という気持ちで最後までできる限りのことを続けられました。
これは「努力をした」と言えるでしょうか?
想いのために自分でできる限りのことをするのは、自分では努力をしたとは思っていません。
家族が死なないためにやるべきことをやった。
ただそれだけなんです。
これは努力ではないんです。
「自分には努力できる才能がない」とか言ってられないんです。
やるしかないんです。
目の前でどんどん弱っていく家族がいて、自分では何もできない家族がいて、自分が犬という家族を愛していて、少しでも長生きして欲しい・死んでほしくないと思っているから。
自分に才能があるかどうか、出来る出来ないとか考える余裕もないし、「自分はこうしたい」と思ったらやるしかないんです。
そうしなければ自分の望む未来は100%途絶えるので。
努力できるかどうかなんてどうでもいいんです。
やるしかないんです。
人に対して「そんなの努力じゃないよ」とかは言う気はこれっぽっちもありません。
でもこれに関しても今までのことに関しても努力というのではなく、やらなくてはならない状況なのでやるしかないというだけです。
例えば自分の母親が目の前で死にそうな時に「そんなに努力できない…」とか言ってられますか?
自分にできることは限られているかもしれないけど、考えられる自分にできることをやりませんか?
家で介護をしていたら僕だったらできる限りの時間を費やします。
人それぞれ考え方や想いは違うのでバラバラの答えが良いと思っていますが、やらなければいけない、どうしてもやりたいこと…があるなら、やるしかないのだと僕は思っています。
自分のやりたいことやプロを目指している段階で、介護のように危機感を持って接することができるかどうかが大事なのかもしれません。
「やらなければ自分の人生が死ぬ」と考えられるかどうかかも。
目の前や自分が死ぬという状況で努力とか言ってる場合ではないし考えられないです。
自分が死ぬのに「努力が…」とか「才能が…」とか考えられず、「やるしかない」という気持ちにしかなれませんでした。僕は。
介護の話をしましたが、自分で「どうしても〇〇したい・〇〇しなければならない」という気持ちがあるなら、やるかやらないかの選択しかないし、死ぬ気でやらないといけないというお話でした。
(死ぬ気で「努力」ではないですよ。)
「努力できるのも才能」や「努力」を話したいのではないですし、そもそもその考えがない、というのがここでの話です。
どんな状況・環境であれ、そのうえでやるかやらないかはそれぞれの判断かと思います。
努力できる才能の有無
またある意味ではやり遂げられた人が「努力の才能があった」で、やり遂げられなかったら「努力の才能が無かった」という結果ありきの問題なのかもしれないなとも思い始めました。
努力の才能があるからできた、才能がないからできなかった…ではなく、逆から見た結論です。
卵が先か鶏が先か程度の話な気がします。
僕の中ではそれくらいな位置づけです。考える必要は特にない部分です。
やらなければ終わるだけですし夢もかなえられず、やれないならそれを諦めるしかない。ただそれだけです。
プロ卓球選手の水谷隼さんの言葉
プロ卓球選手で北京、ロンドン、リオデジャネイロオリンピック代表の水谷隼さんが先日こう呟いていました。
練習まで時間あるのでのんびり☕️
「どうやったら卓球強くなりますか?この技術はどうやったら上手くなりますか?◯◯はどうやったらできるようになりますか?」って人生で1番質問されてる俺の嫌いなワードですから答えます。「1万時間練習してから質問しに来てください」
近道なんてない✋ pic.twitter.com/uKnUq4JWVE— 水谷隼 (@Mizutani__Jun) 2019年5月7日
練習まで時間あるのでのんびり☕️
「どうやったら卓球強くなりますか?この技術はどうやったら上手くなりますか?◯◯はどうやったらできるようになりますか?」って人生で1番質問されてる俺の嫌いなワードですから答えます。「1万時間練習してから質問しに来てください」
近道なんてない✋
まずはやれということなんでしょうね。
やってきたからこそオリンピック代表にもなり日本のエースとなったのだと思います。
さらに
なんで答えないんだと批判や否定する人に言いたい。
書籍にその質問に対する答えは100倍増しで全て書かれています。近道しようとしちゃダーメ🙅♂️ pic.twitter.com/SS3Ci3z1Nr
— 水谷隼 (@Mizutani__Jun) 2019年5月10日
ツイート内の本は「卓球王 水谷隼の勝利の法則」、「負ける人は無駄な練習をする」の2冊。
矢沢永吉「いつの時代だってやるやつはやるし、やらないやつはやらない」
矢沢永吉の昔の動画だけど良いことを言っています。
矢沢永吉「いつの時代だってやるやつはやるし、やらないやつはやらない」
やるやつはとことんやっているんですよね。
上手くいっている人達の言動や行動は本当にこの一言に尽きます。
【イチロー】好きなことをやっているので周りから努力に見えても自分ではそうは思はないんですよね|名言
【追記】イチローと北野武の対談でもこの記事と同じようなことをイチローさんが言っていました。
【イチロー】好きなことをやっているので周りから努力に見えても自分ではそうは思はないんですよね|名言
コメント欄について
たくさんのコメントをありがとうございます。
一般における「努力できる才能の"有無”」についてこの記事では書いていません、
努力できる才能が存在する存在しないという話は書いていません。才能の存在について議論する気もありません。
成功している人達や上手くいっている人達は前提からして違う。努力をする・できるのは当たり前の世界だから「努力ができるという考えが当たり前」という考えにシフトしないといけないと思います。 という話です。
「努力できる才能」があるというのなら、全員持っているからそんな話をしても意味ないよ。という話です。
話の論点はどこかも理解してください。よろしくお願いします。
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この記事で伝えたいことまとめ
- プロで活躍する人達の中に「努力できるのも才能」という考えはない
- 「努力できるのも才能」など考える前にやっている
- 「努力できるのも才能」があるとしたら、上手くいっている人は全員持っている
- プロの中で生きるなら「努力できるのも才能」と語る意味はない(全員が持っているから)
- プロで活躍する人達は費やす時間が凄まじい
- 圧倒的な時間を費やしてからが才能の世界
- 「努力できるのも才能」という意識は出来るだけ早く捨てた方が良い
- 仮に今が違う考えだとしても考え方だけでも彼らと似せることができれば、また成功している人と同じ行動をすれば今よりも自然と結果が出てくる